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九輪君の場合 (3)
作:れいのっく
二日目。
昨日に引き続き好天に恵まれ、『格闘甲子園』は決勝戦当日を迎えた。決勝戦だけあって注目度は前日より高く、観客やマスコミの数も多い。プロの格闘家や格闘好きの有名人も多く顔を見せ、優勝戦に向けて期待を膨らませていた。
やはり、優勝候補の筆頭は九輪だった。ディフェンディングチャンピオンにして、今年の戦績も良好。特に昨日の一、二回戦では相手を完封する鮮やかな勝利を見せ付けている。二連覇に向け期待が高まるばかりだ。
決勝戦に華を添える存在として、澪や綾の人気もかなりなものだった。彼女達はあくまで華、もしくはダークホース的な存在としてしか見られなかったが、女性が男性に混じって二人も勝ち残ったことは充分な快挙だ。二人の元にもマスコミが押し寄せ、急遽できたファンクラブにも取り囲まれた澪は取材やサインにてんてこまいだった。
しかし、そんな華やかな空気に背を向け、優勝候補の九輪は控え室に閉じこもったままだった。
結局、九輪がホテルに帰りついたのは前日の夜中だった。
気付けの一撃を食らって目が醒めた後も、彼はしばらくベッドから起き上がることができ
なかった。軽やかな足音が遠ざかり、部屋が完全に沈黙に包まれてからしばらくして、戒め
を解いてバスルームに転げこんだ。
その後の記憶は曖昧だ。熱い湯で身体を洗い流し、服を着てラブホテルを出た時にはもう、日はとっぷりと暮れていた。
タクシーでホテルまで戻ったのは覚えている。心配して待っていたさやかと澪を黙って強
引に押しのけて部屋に戻り、鍵をかけてベッドに倒れこんだところでまた気を失ったらしい。
二人は大いに彼を心配してくれたが――言えるわけがなかった。
女に犯されたなどと。
翌朝、ベッドから起き上がるのがまた信じられないほど辛かった。足腰には鉛のように疲
労が残り、壁に手をつかなければ身体を支えることすらできない。下半身だけではなく上半
身にもスタンガンを受けた後遺症が残り、ほぼ全身の筋肉が痺れたように力を失っていた。
朝、疲労困憊して出てきた彼を見て、さやかは棄権を進めた。何となく察するものがあっ
たらしく深く追求はしてこなかったが――心配してくれる彼女の視線が、逆に九輪には痛か
った。
澪は何も言わず、さっさと会場入りしていた。彼女は九輪の消耗の原因に気付いていない
ようだったが、態度を硬化させる理由はそれだけではなかった。
(あの時――)
誰もいない控え室で、九輪は唇を噛んだ。
ホテルにたどり着いた時、心配して駆け寄ってきた彼女を――
(俺は――)
足がもつれ、倒れそうになった彼を、澪は慌てて抱きしめようとした。
(その、彼女を――)
突き飛ばしてしまったのだ。
意識しての行動ではない。が、彼女の指先が自分に触れた瞬間、肌が粟立つような感覚と激しい嫌悪感により――、
(何てことを……)
澪は近くのショーケースに背中からぶつかり、けたたましい音を立ててガラスが砕けた。
幸い、澪自身には怪我はなかったが――呆けたような彼女を尻目に、九輪は自分の部屋に逃げ込んでしまったのだ。
仕方がなかった。女性のいる空間にいることが、あの時の彼にはたまらない苦痛だった。
その場はさやかが上手く収めてくれたらしい。が、澪の九輪に対する不信は決定的なものになっただろう。
合わせる顔がない――それが正直なところだった。
が、だからこそ。
『間もなく第一試合が始まります。柏葉九輪選手、工藤澪選手はスタジアムに来て下さい』
放送を聞き、九輪は立ち上がった。ふらつく足をひきずりながらドアに向かう。
行かなければならない。彼女が待っている。
自分に憧れ、自分に追いつくために。そして自分を越えるために厳しいトレーニングを積んできた彼女が、この先で待っている。
だからこそ、逃げるわけには行かない。
入場した九輪の憔悴しきった様子に、関係者も驚きを隠せない様子だった。九輪は無言のまま彼らの前を通り過ぎ、澪の待つリングに上がる。
硬い表情で――そして少し緊張した様子で、澪は彼を迎えた。Tシャツにスパッツ、オープンフィンガーグローブという出で立ち。既にアップは済んでいるようで、上気した肌は軽く汗ばんでいる。
「先輩……」
鋭い視線を投げかけ、彼女はぶっきらぼうに言い放った。
「ボク、全力でいくから」
「……ああ」
乾いた唇を舌で湿らせ、九輪も頷きを返す。澪とは違い、彼はグローブをつけていない。大会ルール上、グローブをつけなければパンチを打ってはいけないことになっている。女性である彼女に気を遣っての行動だったが、澪はむしろ不満そうな様子だった。
ゴングが鳴らされると同時に、澪は一気に仕掛けてきた。
右から左から、矢のような蹴りの連打。ガードを固める九輪の身体に鋭い打撃が突き刺さり、足元の定まらない彼を木の葉のように揺らす。
しなりの効いたローキック。貫くようなソバット。合間を縫ってパンチが飛ぶ。澪の得意とする、スピーディな打撃のコンビネーション。
開始と同時に防戦一方となり、九輪はコーナーに追い詰められた。逃げ場をなくした彼の身体に、勢いを増したラッシュが叩き込まれる。チャンピオンのまさかの苦戦に、会場はざ
わめきたった。
澪が組みついて寝技に持ち込もうとしないのが、九輪にとっては唯一の救いだった。組み合いでは九輪の方が数段上手なので、こちらの関節技を警戒してのことだろう。
しかし、いくら澪が組み慣れた相手だとはいえ、肌が密着するような状況になって平静を保っていられる自信はなかった。こうして打撃を受け流しているだけでも、肌が触れる一瞬に昨日の感触がよみがえり、気持が萎えそうになる。
それゆえに――九輪の狙いは一発逆転のカウンターだった。激しく体力を消耗した今の状態では、長期戦にもつれ込むのは不利だ。
相手の攻勢を誘い、隙を突いて一瞬で勝負を決める。
打撃の雨をかいくぐりながら、九輪は冷静にチャンスをうかがった。変幻自在な澪のコンビネーションだが、そこに付け入る隙がある。
嵐のようなパンチの連打。下段と見せかけて上段の蹴り。休むことのない澪の攻勢に、徐々に焦りが見えてきた。九輪の守りの固さに焦れたのか、一発KO狙いの攻撃が多くなってくる。
チャンスだ。ローキックを受け、九輪はわざとガードを下げた。空いた顔面に向かい、間髪入れずにパンチが飛んでくる。
もらった。身を捻りつつ一歩踏み込み、九輪はカウンターの掌底を打ち込んだ。
澪の拳が頬をかすめ、彼女の顔に『しまった』という表情が浮かぶ。その彼女の顔目掛け、一撃を――
瞬間、足がもつれた。疲れきった体は一発を打たせる体力さえ許してはくれなかったのだ。九輪は大きくバランスをくずし、澪にもたれかかるように倒れこむ。
咄嗟にその腕を取り、澪は九輪を背負いで投げ捨てた。九輪の身体が空中で一回転し、背中からマットに叩きつけられる。
投げた拍子に澪の身体が九輪の上に乗り、彼の顔には澪の胸元が押し当てられる格好となった。あまり大きくはないものの、澪のバストも女性らしい曲線と感触を持っており――九輪の顔の上で、むぎゅっと柔らかくつぶれる。
瞬間、九輪はパニックに襲われた。
肌の匂いが、柔らかなその感触が、脳に刻まれた記憶を強引に刺激し、昨日の体験がフラッシュバックする。
激しい恐怖に苛まれ、九輪は本能的に身を縮めた。押さえ込もうとする澪の下で身を丸め、無防備に背中をさらしてしまう。
あっと思った時には遅かった。背中に馬乗りになった澪が、彼の首に腕を回す。しなやかな腕が喉元に入り込み、きゅっと締め上げる。
背中には柔らかな感触。耳元には彼女の激しい息遣い。乱れた息に乗せ、甘い匂いが鼻をくすぐる。
「がぁ――っ」
咄嗟に立ち上がり、九輪は澪を背負うように投げた。絞めの体勢に入っていた彼女は受け身を取れず、体を浴びせる九輪の下、頭からマットに激突する。
「あぅっ!」
腕の力が抜ける。強引に振りほどく。
立ち上がると、呆けたように上体を起こす澪が目に入った。危険な落ち方をしたせいで目
は虚ろだ。慌てて、レフェリーが駆け寄る。
しかし、その瞬間――半ば無意識に、九輪は彼女の顔面に蹴りを叩き込んでいた。
「!」
すねに伝わる鈍い感覚に、彼ははっと我に帰った。半失神状態だった澪はその一撃をまともに食らい、口と鼻から血を流してその場に昏倒した。
レフェリーが試合を止める。ドクターが駆け寄る。我を忘れ、リングサイドで見ていたさやかも澪の元に駆け寄る。
騒然とするリングの上、九輪は呆けたようにその光景を眺めた。
――何て、ことを。
さやかが彼に詰め寄った。今まで見たことのないような厳しい表情で九輪の目を見据え、激しくなじる。
「やりすぎよ、柏葉くん。最初の投げだけでも危険な状態だったのに……。確かに、澪ちゃんは女の子だからって手加減されるのは良しとしないでしょうけど、でも、あそこで蹴る必要はなかったはずよ」
彼女の言う通りだ。九輪は黙って下を向き、素直に責めを聞くしかなかった。
澪はそのまま意識を取り戻さず、担架で医務室に運ばれた。さやかも彼女に付き添い、九輪は一人で決勝に臨むことになった。
順当に準決勝を勝ち上がってきたのは、やはり綾だった。疲労と精神的ショックで立つのもやっとな九輪を見やり、彼女はふん、と笑みを漏らす。昨日の昼間、自分に向かって毅然と胸を張り「全力で行く」と言い放った彼の面影はどこにもない。
何せ昨日の責めの後だ。棄権しても仕方がないと思っていたが、不調をおして出てくるの
はさすがだった。しかも、圧倒的に不利な状況をひっくり返してのあの勝ちっぷりだ。見事
と言うほかない。
全力で攻めて一気にしとめるつもりだったが、せっかく2年連続のファイナリストになれ
たのだ。その頑張りに敬意を表して、せいぜい遊んでやろう。
柔らかな笑みを浮かべ、綾はコーナーに立つ九輪に歩み寄った。大丈夫だ、正体のばれる
ようなボロは出していない。彼は自分が昨日の犯人であることには気付いていないだろう。
しかしそれでも、彼女が距離を詰めると九輪は明らかに身をすくめた。徹底的に責め抜か
れたせいで、女性そのものに恐怖や嫌悪を抱いているのだろう。にっこりと笑い、綾は彼に
手を差し出した。
「見事な試合でしたわ」
差し出された手を、九輪は握り返そうとはしなかった。怯えと警戒の入り混じった目で、彼女を見やるだけだ。肩をすくめ、綾は手を引っ込めた。
「あなたとこうして優勝戦で競い合えるなんて嬉しいです。お互い、正々堂々と闘いましょうね」
我ながら歯の浮くようなせりふに、思わず苦笑がこぼれた。その微妙な表情の変化に気付き、九輪の目にいぶかしむような色が浮かぶ。下手にしゃべってボロを出してしまう前に、綾は背を向けて自分のコーナーに戻った。
感づかれただろうか? 勘のいい彼のことだ、ひょっとしたら何か思い当たる部分があったかも知れない。しかし、彼に自分の正体がばれようがばれまいが、それは別にどうでもいいことだった。綾と九輪の不調を結びつける証拠など、どこにもありはしない。
それに、準決勝の一件で九輪には比較的ダーティーなイメージがついていた。状況や相手への礼儀はどうあれ、女の子の顔面を蹴るというのが感情的に許されざる行為なのに変わりはない。そのせいもあってか、会場の空気は比較的綾よりになっていた。悪役に落ちた元チャンプを破り、女性である綾が一気に頂点に登り詰める。流れ的に、これほど絵になる優勝劇もないだろう。
九輪一人が事の真相に気付いたところで、どうということはないのだ。
そして無情にも、決勝戦のゴングは鳴らされた。二千人の観衆が、固唾を呑んでリング上の展開を見守る。
準決勝と同じく、九輪は待ちの構えだった。やはりグローブは着けず、素手のまま。対する綾はグローブを装着し、他はタンクトップにショートスパッツと高い露出度で九輪に迫る。
開始早々、綾の低いタックルが決まった。踏ん張りの利かない九輪は一気に足を引き倒され、綾はすかさず彼の胸の上に馬乗りになる。
のしかかる重みが、嫌でも昨日の記憶を呼び覚ました。胸の上の綾がそのまま顔の上に腰をずらしてくるような錯覚に捕らわれ、九輪は思わず彼女の胴を押しやろうとする。
その彼の顔めがけ、容赦のないパンチが降りそそいだ。充分に体重を乗せた打撃が、激しく顔面を打ち据える。咄嗟にガードを上げ、九輪はその猛打を防ぐ。
上から身体をかぶせ、綾は九輪の腕に絡みついた。肌の触れ合うその感触に焦り、九輪は必死で身をふりほどく。綾はすんなりと腕を極めるのを諦め、そのまま体重をかけて九輪を押さえ込もうとする。
絡み合い、もがいているうちに、綾は次第に九輪の身体を支配しはじめた。体重は九輪の方が重いものの、疲労で力の入らない彼はたやすく綾に組み伏せられてしまう。上から的確に浴びせられる綾の体重が、残り少ない九輪のスタミナを奪ってゆく。
「ん――っ!」
上体を袈裟固めに捕らえられ、九輪は呻いた。頭を綾の腕にがっちりとロックされ、薄布に包まれたバストがむぎゅっと顔面を圧迫する。胸の上にはしっかりと綾の身体が乗り、振りほどくこともできない。
抵抗する力はもうほとんど残っていなかった。密着し、押し付けられる柔らかな肌のぬくもりに忌まわしい記憶を呼び起こされ、その嫌悪感から逃れようと必死で身をよじるだけだ。綾が間接を極めようと思えば、その瞬間に勝負は終わるだろう。
しかし、綾はなかなか勝負を終えようとはしなかった。執拗に九輪に絡みつきながら、わざと隙を見せて彼の抵抗を誘う。そして彼のあがきを巧みな体捌きで封じ、弱りきった彼の体をしなやかな肢体で締めつけ、弄ぶのだ。
端から見れば、非常にスリリングな寝技の攻防に見えただろう。しかし、実際のところ動きを支配しているのは常に綾であり、九輪は淫らな肉の罠に捕らえられ、じわじわといたぶられているだけの無力な獲物に過ぎない。
それでも、彼は勝負を諦めようとはしなかった。悲しい戦士の性というべきか、綾が隙を見せてやると、無駄と知りつつその隙を突こうと狙ってくる。彼女の手中でどれだけ苦痛を味わおうとも、決して心が折れることはないのだ。
その頑張りがまた、綾には心地よかった。彼の性格上、こんな程度の責めで屈するとは思っていない。それはつまり、時間いっぱいまで彼を責め続けてもいいということだ。
しかし残念ながら、そうはできない理由は綾に発生してしまった。
――濡れてきたのだ。
九輪と肌を絡ませあうという行為は、綾にはまた違った意味で昨日の情事を呼び覚まさせた。組み敷かれ、自分の下で悶える九輪。その弱々しい抵抗が、荒い息遣いが、彼女の中のサディスティックな快感を刺激する。
気付いた時には、股間にはしっとりと熱い感覚がにじんでいた。黒いスパッツだからそうは目立たないだろうし、多少なら汗と言ってごまかせばいい。が、股間の奥からはじわじわと蜜が沁み出し、濡れた感触は少しずつその面積を広げていく。
そろそろ頃合ということか。
綾の目に冷たい光が宿った。いたぶるのをやめ、一気にとどめを刺しにかかる。蛇のように九輪の背後に絡みつき、その首筋に腕を巻きつける。
スピードを増した綾の動きに、しかし九輪は即座に反応した。長年の鍛錬で身体にしみついた本能的な動作が、極めに入ろうとする綾の動きを遮る。
極めにいこうとした分だけ、そこに一瞬の隙が生じた。その隙を見逃す九輪ではない。
身体を反転させ、九輪はくるりと体勢を入れ替えた。この試合で初めて、九輪が上のポジションを取る。綾は咄嗟に仰向けになり、背を取られないようにするので精一杯だ。
下から蹴り上げようとする彼女の脚を、九輪の腕が捕らえた。そのまま足首を極め、間接をねじり上げる。
――しかし悲しいかな、彼の身体がその動きについてきてくれなかった。
足首を取ろうとした瞬間に、綾が下から彼の腕を引きこんだ。抵抗しようにもそんな力はもう残っていない。なす術もなく、彼は綾の両足に首を挟みこまれる。
下からの三角絞め。
必殺のチャンスは冷酷な罠へとつながっていた。下から引きこまれた右腕と頭が、綾の股
間に深くくわえ込まれた格好だ。首を巻き込むようにしっかりと脚が絡みついているため、
脱出は不可能。ぎりぎりと締め付ける脚の力により、九輪の顔面は綾の股間に埋もれてしま
う。
ちょうどいい。このまま九輪を落としてしまえば、股間の染みは彼の唾液にしか見えないだろう。ぐいぐいと腰を押し付け、綾はさらに九輪を苦しめる。
必死であがき、九輪はしめつけから逃れようとした。が、力を失った彼の腕では綾の絞めを外すのは無理な相談だ。懸命にもがくものの、しなやかな脚の間、抵抗は徐々に弱まっていく。
「せんぱいっ!」
不意に、リングサイドから声が響いた。九輪を締め上げながら、綾はちらりと横目でそっちを見る。
「先輩、しっかりして! 負けないで!」
澪だ。準決勝で九輪に失神KOされた澪が、マットを叩いて懸命な声援を送っていた。
顔への蹴りによるものだろう、鼻には白いガーゼがはられている。小さな唇も痛々しく腫れあがっており、普段は凛としたきれいな顔が台無しだ。受けたダメージは決して小さくない。澪自身、立つのもやっとといった様子だった。
しかしそれでも、彼女は必死で九輪を応援した。動かない九輪に檄を飛ばし、彼の名を呼び励ましの言葉をかける。
そこにはもう、さやかとの仲に関する不信も敗者としての憎しみも何も存在しなかった。
あるのはただ、彼に対する純粋な信頼だけ。先輩や後輩、師匠と弟子、といった単純なものでもなく、二人の、九輪と澪の間に生まれるひとつの絆ともいうべきものがそこにはあった。
声が耳に届いたのだろう。ぐったりと力を失っていた九輪の身体に、かすかな炎が宿った。締め付ける綾の脚の間、懸命に頭を動かして絞めから逃れようとする。
ぎゅっと力をこめ、綾は簡単にその動きを封じた。今の消耗した九輪には、澪の声援も些細な延命措置に過ぎない。むしろ苦痛の時間が長引くだけだ。
ぐいぐいと腰を揺すぶり、綾は彼の首筋に太腿を食い込ませた。がっちりとロックした脚の中で、九輪は彼女の股間から顔をそらすことができない。沁み出す愛液で濡れたスパッツは隙間なく彼の顔を塞ぎ、呼吸を完全に封じてしまう。
限界だろう。息もできず、頚動脈を締め上げられ、九輪の身体からはみるみる力が抜けていった。泣きそうな顔で声を送り続ける澪の前、九輪はなす術もなく意識を――
(くっ……しぶといわ)
なかなか、九輪は落ちなかった。完全に呼吸を止められているにも関わらず、一向に意識を失う気配を見せない。三角絞めの体勢のまま、時間だけが刻々と過ぎ去る。
力をこめ続けたせいで、綾の身体にも疲労がのしかかっていた。肌はじっとりと汗ばみ、溢れる愛液もあってスパッツは気持悪いほどに濡れている。さすがに焦りを感じ、綾が戦術を切り替えようとした時――
甲高い音とともにゴングが打ち鳴らされ、状況を見守っていたレフェリーが二人の元に駆け寄った。
(勝った? いや――)
技を解き、九輪を解放してやる。九輪はマットにくずおれ、激しく咳き込む。
(時間切れ――)
決勝トーナメントは1ラウンド10分で行われている。九輪がギブアップしないまま時間いっぱいまで粘ったため、勝負は次のラウンドに持ち越しになる。前半に遊びすぎたツケがここで来たと悟り、綾は唇をかんだ。
(まぁ、いいわ。どうせもう、足腰の立てる状態じゃないだろうし)
さっさと立ち上がり、綾は自分のコーナーから相手の様子を見守った。激しいスタミナの消耗に、九輪は足元すらおぼついていない。慌ててコーナーに駆け上がった澪が彼の手を引き、タオルで汗をぬぐってやる。
(お遊びはここまでよ。次のラウンドで気持よくKOしてあげるから、覚悟しててね……ふふ)
勝利を確信して薄く笑みを浮かべる綾に対し、九輪は満身創痍だった。あまりに憔悴しきった彼の様子に、澪もかける言葉が見つからない。
「せんぱい……」
せめて手を差し伸べ、彼の肩に触れようとして――はっとして、彼女はその手を引っ込めた。昨日の夜、九輪が自分に向けた嫌悪のまなざしが、ふっと脳裏をよぎる。
「……いいんだ」
かすれた声を喉の奥からしぼり出し、九輪は震える腕を上げた。遠慮がちに差し伸べられる澪の手を取り、ぎゅっと握り返す。
「すまなかったな、澪……怪我はひどいのか?」
「先輩、そんな……」
ぼろぼろに痛めつけられながら、目前の試合よりも自分の身を気遣ってくれる九輪に、澪はぽろぽろと涙をこぼした。
「大丈夫だよ、大丈夫……ボク、怒ってないから……先輩こそ、こんなひどい目にあって……」
「ああ、気にするな」
コーナーにぐったりと身体をもたれさせ、九輪は目を閉じた。澪がそっと手を伸ばし、汗に濡れた肩に置く。
九輪の手が、その上に重なった。
柔らかなぬくもりが、触れ合う肌を通じて身体に沁みこむような気がした。感触は綾のそ
れと同じなのに、受ける感覚は全く違う。淫靡な肌の魔力で蹂躙された身体に、心地よい安
らぎが広がってゆく。
肌を合わせているだけで女性への嫌悪や恐怖感は消え、不思議な安堵が彼を満たした。ど
うして昨日は、彼女にあんな邪険な態度を取ってしまったのだろう。後でちゃんと謝らなけ
れば。
でも、今は――
「少し……こうしていてくれないか」
「……うん」
九輪の言葉に、澪は恥ずかしそうに頷いた。彼女の手の下、九輪は静かに呼吸を整える。
大丈夫。まだいける。
「ええと、ちょっと、いいかしら?」
二人のいるリングの下。遠慮がちに、さやかが声をかけた。インターバルは5分。間もなく第2ラウンドが始まろうとしている。
「もうそろそろ試合再開だけど……戦えるの、柏葉くん?」
彼女の手にはいつでも投入できるように白いタオルが握られ、顔は心配に曇っていた。無理もない、第1ラウンドにあれだけ攻め込まれたのだ。いくら強靭な身体を持つ九輪とはいえ、この短時間で受けたダメージが回復しているとは思えない。
しかし彼は諦めるそぶりすら見せず――ちょっと考え、さやかを見下ろした。
「グローブを用意してもらえますか、先生」
第2ラウンドが開始されると、館内に少しざわめきが広がった。
コーナーから出てきた九輪の両手に、黒いオープンフィンガーグローブがつけられていたからだ。
大会ルール上、素手でのパンチは反則とされる。選手が怪我を負う危険性が高いからだ。準決勝、そして今までの第1ラウンドと、九輪は相手が女性ということでパンチを封印して闘ってきた。
その彼が、拳を解禁する。
覚悟を決めた九輪の様子に、綾の表情にも警戒が宿った。体力は消耗しているものの、コーナーから歩み出る彼にはさっきまでの憔悴しきった気配は感じられない。澪の声援を受け第1ラウンドを乗り切ったことが、萎えかけた闘志を奮いたたせたようだ。
ゴングと同時に、綾は猛然と突っかけた。軽いステップで距離を取りつつ、九輪のパンチの射程外から鋭い蹴りを打ち込む。
カミソリのような蹴りが九輪を捕らえ、彼の身体が大きく揺らぐ。前日の責め、澪との試合、そして第1ラウンドのダメージ。積み重なったダメージは九輪の身体に深い爪痕を残し、反撃の能力も回避する余力すらも奪っている。綾は冷徹なヒットアンドアウェイに徹し、彼
の身体にダメージを刻み続けた。
猛打に耐え切れず、がくりと九輪の膝が折れる。恐らく倒して寝技に持ち込んでも、そう簡単にギブアップはしてくれないだろう。顔面に一撃を加えてノックアウトするしかない。
片膝をついた彼の顔目がけ、綾の蹴りが走った。ちょうど九輪の準決勝と同じシチュエーション。鈍い音とともに蹴りが顔面を直撃し、九輪の頭が大きく吹っ飛ぶ。
「せんぱいッ!」
セコンドの澪が悲痛な声を上げた。彼女の目の前で、彼の身体がゆっくりとマットに――
「!?」
勝利を確信した綾の顔に、戸惑いの色が浮かんだ。顔面に炸裂したはずの蹴り脚を、九輪ががっちりとつかんでいる。彼女の脚の下、九輪の目がぎらりと光り――
立ち上がりざまのアッパーカットが、綾の顎を直撃した。
「あぅっ!」
片足を取られバランスを崩されたため、ガードが間に合わなかった。痛烈な一発をもらい、逆に綾の腰が落ちる。
半ば意識の飛んだ状態で、九輪は彼女の背後に回った。朦朧とする綾を後ろから抱きすくめるようにして、首筋に腕を巻きつける。
「――――ッ!」
最後の力をふりしぼり、首を絞め上げる。腕の中でもがき、綾は必死の抵抗を試みる。
が、九輪の絞めは完璧だった。抵抗もむなしく、綾の身体から力が抜けていく。ぐったりと九輪に身を預ける綾の様子に、レフェリーが試合を止めた。落ちたのだ。
打ち鳴らされるゴングとともに歓声が湧きあがった。劇的な逆転勝利を遂げた九輪の元に、澪が駆け寄ってくる。傷ついた顔を涙でくしゃくしゃにし、彼女は倒れこむ九輪を抱きとめ
た。
もう、九輪は彼女を突き放そうとはしなかった。
(おわり)
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