九輪君の場合    (1) 

                        
作:れいのっく

 バシィィッ!
 乾いた音とともに蹴りが叩き込まれ、サンドバックが大きく揺れた。
 衝撃の余韻に、天井から吊り下げた鎖がギシギシと軋む。空中でゆらゆらと揺れるサンド
バックめがけ、続けざまに鋭い突きが打ち込まれる。
 ドン! ドン! ドン!
 まるで砲が着弾したような重音。三連打で放たれたパンチがサンドバックをえぐり、黒革
のボディが衝撃によじれる。
「しィッ!」
 呼気とともに跳躍。揺らぐサンドバックの前で、柏葉九輪(かしわば・くりん)は独楽のように身体を旋回させる。
 空中での飛び後ろ回し蹴り。
 足刀をど真ん中に突き立てられ、重さ数十キロのサンドバックは後ろに吹っ飛んだ。天井に取り付けられたレールを滑り、数メートル動いたところでようやく停止する。
「ふーっ……」
 大きく息をつき、九輪は呼吸を整えた。五分間の連打練習を終え、心地よい疲労感が全身を包む。吹きだした汗を手の甲で拭うと、横から白いタオルが突き出された。
「はい、ご苦労様」
「ありがとう」
 精悍な顔に嫌味のない笑みを浮かべ、九輪は「格闘部」顧問の白上さやか(しらかみ・さやか)からタオルを受け取った。
「五分間で412発。いいペースよ。調子は上がってるみたいね」
「まだまださ。ここ半年は新入生に教えてばっかりで、ほとんど自分の練習ができなかったからな。これから大会に向けてきっちり調整していかないと」
「ふふ、そうね。……とは言っても、その新入生も一人しか残ってないけど」
 くすりと微笑むさやかの視線の向こう、黙々とダンベルトレーニングをしていた少女がこっちに向かって手を振った。
「せんぱーい、終わった? スパーしよスパー!」
「おいおい、ちょっとは休ませろよ……」
「だめーっ!」
 重いダンベルを放り出し、彼女は軽やかに九輪に駆け寄ってくる。小柄な身体、一見華奢に見える手足。ハードなウェイトトレーニングをこなした後だというのに、疲れは微塵も感じられない。
「それじゃ行くよ――いやぁっ!」
 気合の声を上げ、工藤澪(くどう・みお)は九輪に襲いかかった。

 私立新宮(しんぐう)高校。
 この学校に柏葉九輪が入学したのは去年の春のことだ。そう身長も高くなく体格的には標準サイズの彼は、大勢の男子生徒の中ではそう目立つ存在ではなかった。
 その彼が名門の柔道部にいわゆる「道場破り」をしかけたのは、入学したその日のことだった。
 最初、屈強な柔道部員たちは彼を相手にしようとはしなかった。名門柔道部のある新宮高校には中学の柔道大会で活躍した新入生が多く集まっており、無名で体格的にも目を引くところのない九輪はただのはねっ返りとしか見られなかったせいだ。
 しかし、肩慣らしに彼との組み手を買って出た新入生を、九輪は簡単に投げ捨てた。その後も次々と勝負を挑む部員を軽く片付け、三年生の主将の間接を極めて一本を奪い、九輪は呆然とする部員たちを尻目にその場を立ち去った。
 それから一月と経たないうちに、九輪は校内の武道系の運動部を全て制覇してしまった。
 空手にボクシング、レスリングに相撲。学生チャンプやインターハイ出場者を相手に九輪は真正面から渡り合い、そして勝利した。
 報復として学校の内外で彼に喧嘩をふきかける者もいたが、そういった生徒は手ひどい反
撃を受けた。集団で襲おうが武器を持とうがお構いなしに九輪は彼らを返り討ちにし、ある
時は相手の全員を病院送りにもした。
 そして、九輪は学校に「格闘部」の設立を届け出た。折りしも昨今の格闘技ブームに乗っ
て高校生格闘大会が夏に開催されることもあり、学校側は問題なく承認した。
 最初の頃は彼一人だけの部活だった。彼に敗北した部が手を回し、新規入部を妨げたせいだ。部員が増えなければ、いつか部は潰れるだろう――そういった魂胆だった。
 しかし、夏の全国大会で九輪が並み居る強豪を押さえて優勝を勝ち取ると、がらりと評価は変わった。校庭の隅に建てられた格闘部の部室は入部希望者であふれ、一気に格闘部は新宮高校の顔にのし上がった。
 が、それも長くは続かなかった。
 九輪の扱う技は柔術をベースに自分なりの改良を施したもので、打・投・極を修めた独特のものだった。練習は厳しいもので、加えてストイックで妥協のない九輪の教えについていけず、三ヶ月で全員が退部届けを出した。
 九輪としても、彼らを引きとめようとする気は特になかった。彼の目的は自分の強さを確かめることだけ。それを誇りたいわけでも他者を蹴落としたいわけでもなく、ただ自分がどれだけ強いのかを知りたいというだけだったからだ。その一環として格闘大会にエントリーすべく、彼は格闘部を設立したのだった。
 九輪が進級し、二年生になっても状況は似たようなものだった。去年の彼の活躍を知り多くの新入生が入部し、彼のしごきを受けて辞めていく。ただ一人、新一年生の工藤澪だけが残り、九輪の指導のもと厳しいトレーニングを続けていた。
 そして、今年も夏がやってくる。

「お疲れ様、柏葉くん」
 練習を終えシャワーから出てきた九輪に、さやかは冷えた麦茶を差し出した。礼を言って受け取り、九輪は乾いた喉を潤す。一息に飲み干してほう、と息をつく九輪を、彼女は微笑みながら見守った。
 現国教師のさやかは大学を出て教員になったばかりで、現在25歳。穏やかな物腰としなやかな肢体、美しい黒髪を持ち、男子生徒からの人気は高い。細やかな気配りのできる正確
の持ち主で、試合と練習しか頭にない九輪をなにかとサポートしてくれる。部員の少ないこ
の格闘部がどうにか部としての体裁を保っていられるのも、全て彼女の努力のたまものだっ
た。
「……どうかしましたか?」
「ふふ、何も」
 視線を受け、九輪は少し居心地悪そうに目をそむける。さやかはロングヘアを揺らして微笑み、コップを受け取った。
「先輩っ! お疲れ様ですっ!」
 一足先にシャワーを浴びていた澪が、そんな彼に元気良く声を投げかけた。
「ああ、お疲れ。どうした? 今日の練習はもう済んだぞ?」
「あ、うん……でも、その……」
 活発そうな大きな目に、化粧っけのないショートの髪。しなやかにすらりと伸びた手足。小柄で起伏の少ないその身体は、一見すると少年と見間違えそうだ。しかし九輪の視線を受けるや頬を染めて顔を伏せ、もじもじしながら言葉を継ぐその姿は年相応の少女のものだった。
「先輩、ボクと帰る方向同じですよね? たまには、あのっ……、一緒に帰りませんかっ?」
「悪い、ちょっとこれから予算関係で先生と打ち合わせなきゃならないんだ。今度にしてくれないか?」
「あ、はい……」
 九輪のそっけない返事に、澪は肩を落としてしょんぼりと部室を後にした。覇気のないその背中を見送り、九輪は首をかしげる。
「どうしたんだ、澪のやつ。疲れたのかな?」
「違うと思うけどなぁ……」
 呆れたような微笑をもらし、さやかは机の上に書類を広げた。
「さ、始めましょ。まずは大会遠征の事務手続きを片付けないとね」
「はい」
 机を挟んで向かい合い、二人は書類の整理を始めた。とはいってもほとんどの準備はさやかが済ませているため、九輪は部長として目を通し、了解するだけだ。さやかの適切な処理のおかげで、書類の整理は滞りなく片付いた。
「そういえば柏葉くん、今回の大会なんだけど……」
 そう言ってさやかが取り出したのは、今月末に開催される全国高校生格闘大会の参加者名簿だった。
 俗に「格闘甲子園」とも呼ばれる全国高校生格闘大会は、格闘技の殿堂・日本武道館で決
勝大会が行われる。
 前年度覇者である九輪にはシード権が与えられていたが、彼は調整もかねて地方予選から
エントリーし、圧倒的な強さで決勝大会に駒を進めていた。彼の指導を受けた澪も参加者中
最も小さな体格ながら健闘を見せ、ダークホースとして決勝大会に生き残っている。
 決勝大会は地方予選を勝ち上がってきた総勢16名によるトーナメントであり、二日にわたって行われる。参加者名簿には九輪や澪を含め、その16人が顔写真入りで紹介されていた。
「……?」
 その中の一人に、九輪は目を留めた。
「篠宮――綾(しのみや・あや)……?」
 篠宮綾、神戸の名門私立女子高に通う二年生。スレンダーな肢体を深緑色のブレザーに包み、怜悧な美貌をカメラに向けている。濡れたような黒髪を持つ、どこか日本人離れした美しさの持ち主で、切れ長の目の奥にはどこか人を見下すような色がうかがえた。
「驚いたな……澪以外にも女子で決勝進出者がいるなんて」
 全く聞いたことのない名だった。去年の大会にも出場していない。他の出場者は九輪も名前をよく知る全国の強豪ぞろいで、その中で無名のまま一人勝ち上がってきた彼女の存在はひときわ目立って見えた。
 身長165センチ、体重は50キロと、背は高いがそう大きな体格ではない。高校生ながら2メートル100キロという巨漢も出場するこの大会では最軽量の部類に入るだろう。
「そうね。もし試合で彼女と当たったらどうする?」
「どうもしませんよ。全力を尽くします」
 さやかの問いに、九輪は当たり前のように答えた。いくら女性とはいえ、この大会に勝ち上がってくる以上は相当な実力者だろう。油断はできない。
「そんなこと言って柏葉くん、澪ちゃん以外の女の子と組み手なんてしたことないんじゃない? 女の子相手に、ちゃんと戦えるの?」
「相手が男とか女とかは関係ないですよ。強いやつは強いし、一度試合に臨んだ以上は全力で勝ちにいくだけです。手加減はしません」
「ふふ、そうじゃなくって……」
 淡々と答える九輪に、さやかは悪戯っぽい笑みを向けた。椅子から立ち上がり、彼の元に歩み寄る。
「もし、こんな風にされたら……?」
 九輪の手を取り、さやかは彼を椅子に押さえつけた。
「先生……?」
 いきなりの彼女の行動に戸惑いつつ、九輪はしなやかな白い指先をふりほどこうとする。さやかは格闘技経験はないし、腕力では自分にかなうべくもない。少し力をこめれば、簡単にふりほどける。
 ――はずだった。
「……?」
 つかまれた腕はしびれたように力を失い、彼女の細腕で簡単にねじ上げられた。慌てて身をもがこうとするが、同じく全身からは力が抜け、華奢なさやかの下で簡単に組み伏せられてしまう。
 そんな彼の膝をまたぎ、さやかは九輪の上に馬乗りになった。
「せ……先生!? 何を!?」
 顔を上げると、さやかの顔が驚くほど間近にあった。さらりと揺れる髪、ほのかに香るシャンプーの甘い匂い。柔らかくのしかかる肌。くすりと笑む唇を目の前にして、九輪はパニックに陥る。
「まさか……さっきの麦茶……」
「あたり」
 顔をよせ……、さやかは優しく九輪にくちづけた。
「ん――――」
 顔を振って、九輪は逃れようとした。が、さやかは両腕を彼の首に絡ませ、動きを封じてさらに唇を奪う。
 柔らかな肌の感触。しっとりと密着する唇。甘い息。濡れた舌が唇の隙間から侵入し、チロチロと口の中を這い回る。
 未体験の感覚の中で、九輪は必死で抵抗しようとした。が、甘美なくちづけはしっかりと九輪の唇を捕らえて放さず、ねっとりと彼の気力を吸いつづける。
 ほどなくして、九輪は抗うのをやめた。全身から力が抜けているのは、何も薬のせいだけ
じゃない。
 九輪が完全に力を失ったのを確認して、さやかは彼をくちづけから解放した。唾液が二人の間で透明な糸をひき、さやかは舌先でぺろりと唇を舐める。荒い息をつきながら、九輪はのどの奥から声をしぼり出す。
「せっ……せんせ、どうして、こんな……」
「あら、そんなに気持ちよかった?」
 くすくす笑いながら、さやかは九輪の首筋に唇を這わせた。舌先が敏感な皮膚をなぶり、九輪は電流に打たれたようにびくんと身を反らす。
「は――ぁっ!」
「ふふ、ここも弱いの? それとも……ここ?」
「そ……そんなことは――ぁぁっ!?」
 身動きの取れないままでさやかの責めを受け、九輪は身もだえした。その彼の反応に、さやかは責めの手を強める。体を密着させてぎゅっと乳房を押し付けると、早く激しい彼の動悸が伝わってきた。
「ふふ……かわいい」
 ぺろりと耳を舐め上げ、さやかは九輪の胸元に手を伸ばした。ブレザーのボタンに手をかけ、ゆっくりと外していく。
「せ……せんせ、何を……」
「だって、我慢できなかったんだもの」
 既に九輪の身体には薬がまわり、彼はまるで抵抗することができなかった。制服を脱がせ、シャツをまくりあげ、さやかは彼の上半身をあらわにする。
 引き締まった胸板に、さやかのしなやかな指が這う。首筋に唇をよせながら敏感な部分を優しく舌先でなぞると、九輪はかすかな喘ぎとともに身を震わせた。
「ほら、この程度でそんなに震えちゃって……ほんと、力はあるのに、こっちの方はからきしなんだから……」
 さやかの言う通りだ。非力な彼女の腕の中で無力に震えるしかない自分。悔しさに顔をゆがめながら、九輪はさやかの手に弄ばれた。
「駄目だって、先生……こんなところ、誰かに見られたら……」
「大丈夫、今学校に残ってるのは私達だけよ。邪魔は入らないから、心配しないで」
「けど……だからって、そんな……俺は生徒で、先生は教師なのに……くぁっ!」
「あら、そんなこと言ったって。ここは凄い嬉しそうよ?」
 ひとしきり胸板を撫で回し、さやかの手は九輪の下腹に下りていた。スラックスごしに指
先が股間を探り、反応し始めた九輪を優しく撫でさする。
「ぁぁ……っ、はぁっ……!」
「ふふ、元気になっちゃって。良かったわ、もう17歳なのに、柏葉くんたら全然女の子に興味ないみたいなんだもの。澪ちゃんの気持にも気付いてあげてないみたいだし」
「はぁっ、はぁっ……?」
「ダメよ、高校生の男の子がそんなことじゃあ。若いうちから、ちゃんと女の子のことは知っておかないとね」
 九輪から手を放し、さやかはスーツのボタンを外した。彼の膝に乗ったまま、服を脱いで胸をはだける。
「せん……せ……?」
「だから、ほら……」
 九輪の目の前で真っ白な肌がこぼれ、優美な曲線を持つ乳房が姿を見せた。ピンク色の薄い布地が、はちきれんばかりの双丘を辛うじて受け止めている。目の前に迫るさやかの谷間に、九輪は目を白黒させた。
「先生が、教えてあげる」
 その彼に、さやかは再び抱きついた。張りのあるバストが九輪の胸に密着し、むにゅっと柔らかく潰れる。思わず声を上げそうになる口にさやかの唇が重なり、強引なキスが言葉を奪う。
 濡れた舌が口の中を舐めまわし、九輪の舌に絡みついた。息苦しさに呻く彼の股間を再び指がまさぐり、ジッパーを開けてズボンの中に侵入する。とろけるようなくちづけの中、九輪は観念したように目を閉じた。
 とその時、部室のドアががらりと開けられた。
「お疲れ様ですっ、先輩、先生っ! 忘れ物しちゃいました!」
 元気にドアを開け、入ってきたのは澪だった。そしてイスの上でもつれ合う二人を目にし、愕然と動きを止める。
「み……澪ちゃんっ?」
 慌ててキスをやめ、さやかは声を上げた。
 はだけた胸元。乱れた髪。半裸でぐったりとイスにもたれる九輪。慌てて放した口からはからまり合う唾液が澄んだ糸をひき、つっ――と二人の間に落ちる。
 放課後の部室で抱き合う生徒と教師……どう見ても言い逃れのできないその光景を目にし、澪は呆けたような顔でくるりと背を向けた。
「ごめんなさい……お邪魔、しました」
「あ、待っ……!」
 さやかの制止の声も虚しく、ぴしゃりとドアが閉められる。その後ろ姿を見送り、さやかは少しばつが悪そうに九輪を見下ろした。
「あーあ、見られちゃった」
 まるで九輪を非難するような口ぶりだ。薬が回ったせいで九輪は口をきくこともできず、彼女の下でハァハァと荒い息をつくだけだ。
 興醒めした様子で、さやかは彼の膝から下りた。服を着なおし、乱れた髪を整える。
 化粧を直して振り向くと、そこにはいつもと変わりない、普段どおりのさやかがいた。ついさっきまでの妖しい雰囲気は跡形もなく消えうせ、しっとりとした微笑みがいまだ動けない九輪に向けられる。
「澪ちゃんには私からフォローしておいてあげる。もっとも、聞いてくれるような雰囲気じゃないかも知れないけどね」
 悪戯っぽく片目をつぶり、ちゅっ、とキスを投げる。部室を後にしようとして、さやかはもう一度だけ振り返った。
「心配しないで、薬は30分もあれば切れるわ。……それと、もう少し女の子には慣れておかなきゃダメよ。女の子っていうのは、キミの想像もつかないような手段で攻撃してくることもあるんだから。……ふふ、じゃあね」
 霞む視界で、九輪は軽やかに立ち去る彼女を見送った。

 しかし結局、九輪が澪と顔を合わせたのはそれから半月後のことだった。さやかと彼のやり取りを目撃して以来、澪は部室に顔を出さなかったからだ。
 さやかの説得にも、澪は応じようとはしなかった。彼女のことが気にならないわけではなかったが、九輪は無理に雑念を振り払って練習に没頭した。
 不思議と、さやかはあれ以降九輪に迫ることはなかった。彼女なりに澪に気をつかっているのだろう。九輪もあの時のことは無理に頭から締め出し、目前に迫った大会に集中する。
 結局、彼が再び澪と顔を合わせたのは全国大会当日だった。会場にはさやかの運転する車で向かったが、澪はむすっとした様子でさっさと助手席に乗り込み、三人は特に会話もなく会場である日本武道館に入った。
 しかし会場入りすると、さすがに彼女も緊張を取り戻したようだった。まだ少し固い表情を見せつつも、九輪のアドバイスに真剣に耳を傾ける。一時的にわだかまりを捨て、二人はファイターとして気を引き締めて試合に臨んだ。
 連戦によるダメージを考慮し、試合は二日にわたって行われる。一日目の今日で選手は16名から4名にしぼられ、二日目に優勝者決定戦が行われるという段取りだ。勝ち残るためには今日二試合をこなし、二人に勝ち抜かなければならない。
 抽選の結果、九輪と澪は同じブロックに分かれた。順当に勝ち進めば準決勝でぶつかることになる。澪は少し寂しそうに、「決勝で当たりたかったですね」と笑った。
 とは言うものの、それも口で言うほど簡単なことではない。二人のいるブロックには全国の柔道や空手の強豪がずらりと顔をならべ、虎視眈々と優勝を狙っている。女子である澪はもとより、前年度優勝者の九輪は全員からしっかりとマークされており、勝ち上がるのは困難に思えた。
 もう一方のブロックでも、それは同じだ。厳しい地方予選を勝ち抜いてきただけあり、そこに残っているのはいずれ劣らない猛者ばかりだ。この中の誰が優勝戦に勝ちあがってもおかしくはない。
 その中に、篠宮綾がいた。
 ごつい男の中に混じり、一人たたずむ彼女の姿は特に目を引いた。育ちの良さを感じさせる上品な振る舞い、人を傷つけたことなどなさそうな華奢な腕。水着に似た試合着に包まれた身体はしなやかながら優美な曲線を描き、美貌と相まって女性らしさを際立たせている。
 が、彼女だって予選を勝ち抜いてここに残った人間だ。当たるとすれば決勝になるだろうが、九輪に油断する気は毛頭なかった。
 開会式が終了すると、間を置かずに試合が始まった。九輪は第一試合からの出場だ。気を引き締めて試合場に向かい、初出場の空手家と対戦する。
 試合はプロの格闘技大会と同様、四角形のリングで行われる。四方はロープで囲まれ、コーナー四隅の鉄柱がそれを支えている。怪我を防ぐためマットは衝撃を吸収するつくりになっているが、柔道技などで後頭部から叩きつけられれば失神することも少なくない。
 初戦の相手は空手部所属なので、投げ技の心配はなさそうだった。九輪はボクサーパンツとオープンフィンガーグローブを身につけ、空手着をまとった相手との試合に臨む。
 初出場ということもあり、相手の動きは若干の固さが残っていた。九輪は相手の突き蹴り
をさばき、お返しのラッシュでダウンを奪った。何とか立ち上がってきた相手にさらに猛打
を浴びせ、最後は右のストレートで地に這わせる。
 ゴングが打ち鳴らされ、セコンドとドクターが失神した相手選手に駆け寄る。初戦を難なくKO勝利で飾り、九輪は控え室へと引き上げた。
 その途中で、彼はばったりと澪に出くわした。自分の試合をすぐ後にひかえ、彼女は誰もいない選手用通路で軽く身体をほぐしているところだ。
「あ、先輩」
 歩いてきた九輪に笑顔を向け――この間のことを思い出してか、澪はすぐにその表情を曇らせた。
「モニターで見てたよ。さすが、楽勝だよね」
「向こうが雰囲気に呑まれていただけだ。俺は2年目だから余裕を持って臨めただけさ」
「先輩らしいね。そんな、謙遜しちゃって」
「いや、相手が本調子じゃなかったのは確かだ。拳筋に切れがなかったし、呼吸も乱れていた。お前も気をつけたほうがいい。普段の稽古とは違うからな、気を平静に保たないと足元をすくわれるぞ」
「はーい、頑張ります」
 普段通りの彼のアドバイスに、澪も少し表情を和らげた。いつもと変わらない、先輩と後輩の関係。それ以上でも、それ以下でもない。
 普段は物足りなく感じるこの距離感が、今は不思議と気を落ち着かせてくれる。
(そうだよね……確かに、こないだのことは気になるけど……でも、それで気持が乱れて試合に負けたりしたら、元も子もないもん)
 それに、自分が好きになったのは勝負に対して常にストイックで、ひたむきに鍛錬を続ける格闘家としての柏葉九輪だ。ここで変に自分に気を遣っていいわけや弁解をするような相手だったら、そもそも好きになったりしない。
「落ち着いてきたみたいだな」
 彼女の様子を見て取り、九輪は少し顔をほころばせた。
「それに、今年の大会に出てる女子はお前一人じゃない。神戸の女子高からも一人決勝進出しているからな、自分が女だからって変に気負う必要もないぞ」
「その分、相手の男性も手加減してくれないでしょうけどね」
 鈴を転がすような澄んだ声が、二人の会話に割り込んだ。
「君は――」
 振り向いた九輪の視線の先、たおやかな笑みを浮かべて立っていたのは、澪に次ぐもう一人の女性――篠宮綾だった。

「初めまして、柏葉さん。去年の優勝者とこうしてお話ができるなんて光栄ですわ」
 花のような笑みをふりまきつつ、優雅な仕草で一礼。可憐でいながら一分の隙もないその動作に、九輪は少し表情を固くした。
「あら。いやですわ、そんな怖い目をなさって。何かお気に障ることでも?」
「……いや、何でもない」
 澄んだ瞳で見つめられ、九輪はふっと緊張を解いた。何を警戒しているんだ、自分は。別に試合中でもないのに――。
「ちょっと先輩! なに鼻の下伸ばしてるのっ?」
 少しむっとした様子で、澪が二人の間に割り込んだ。
「俺が? 何のことだ?」
「な……何って、ことは、ないけど……でも、後で試合するかも知れない相手だよ? 何かの罠かも知れないし……とにかく、あんまりしゃべっちゃダメ!」
「あらあら……随分と嫌われたみたいですね」
 敵意むき出しな澪の態度に、綾はくすくすと笑った。写真で見た時とは違い、人当たりの良さそうな、邪気のない印象。いずれは敵として当たるかも知れない相手だ。普通ならもう
少しピリピリしていそうなものだが。
「澪、いくら何でもそれは失礼だろう。彼女に謝れ」
「う……でも……」
 さすがに言い過ぎたと思ったのか、澪も少しばつが悪そうな顔になった。九輪にたしなめられ、もじもじと下を向く。
 ちょうどその時、館内にアナウンスが鳴り響いた。次の試合開始が近付いています、出場選手は速やかに試合会場に集合してください――
 その中には澪の名もあった。二人の間でおろおろする彼女に、綾は柔らかな笑みを向ける。
「私のことなら、構いませんよ? 女性としてこういう大会に出場する以上、色々と言われるのには慣れていますから」
「う……ごめんなさい」
 毒気を抜かれた様子で、澪は素直に謝った。そして九輪にもぺこりと頭を下げ、逃げるようにその場を後にする。
「――すまない、うちの後輩が失礼なことを」
「気を遣っていただいてすみません。でも、前年度優勝者にそんなに警戒されるなんて光栄です」
「警戒なんて、そんな……」
「あら」
 くすりと笑って、綾は下から九輪の目をのぞきこんだ。
「そのわりには、少し緊張されている様子ですけど?」
 見透かすような彼女の視線に、九輪は黙り込んだ。
 彼女の言う通りだ。最初に顔を合わせた瞬間から、彼は綾の中に並ならぬものを感じ取っていた。少し身構えてしまうのは、彼女が魅力的だからというだけではない。
 長年の鍛錬と試合により研ぎ澄まされた、いわば戦士としての嗅覚。それが彼に囁きかけるのだ。――彼女は強い、油断するな、と。
 そして綾もまた、九輪に対して同じものを感じ取ったようだ。
「どうやら試合まで会わないほうが良さそうですわね」
 ふふ、と笑って、彼女は九輪から視線を外した。
「これ以上顔を合わせていると、なんだか私のことを見透かされてしまいそうですわ」
「ああ、俺もそう思う」
 視線を外され、九輪はほう、と胸を撫で下ろした。見透かされてしまいそうなのはむしろこっちの方だ。
「女性相手でも手加減はしないと決めていたが……どうやら君にはそんなことを言っている余裕もなさそうだ」
 視線を外したまま、綾の横を通りすぎる。二人の間で空気が乱れ、彼女の髪から漂う甘い匂いがふわりと九輪を包み込んだ。
「全力で行かせてもらう。決勝で会おう」
「――ええ。私も、容赦はしません」
 そう言った綾の目に、九輪は気付いていなかった。
 平然とした口調とは裏腹に、冷徹な――それでいて残酷な期待が瞳の奥できらめく。
「全力で、いかせてもらいますわ」
 すれ違う二人の背に、試合開始を知らせるゴングが鳴り響いた。

 特に大きなアクシデントもなく、一日目は終了した。
 九輪と澪はともに二試合を勝ち抜き、翌日の準決勝へと駒を進めていた。同じブロックなので準決勝で激突することになる。
 綾も二人の対戦相手を下し、ベスト4の一角を担っていた。女子が二人も準決勝進出を決めたというのは大きな話題だ。集まっていたマスコミ陣の注目は彼女達二人に集中し、澪はフラッシュと質問攻めにしどろもどろで受け答えしていた。
 しかしそれでも、優勝の大本命が九輪であるのに変わりはない。彼と違って、澪や綾は圧倒的な強さを見せつけたわけではなかったし、準決勝で綾と当たる選手は前年の大会で九輪に敗れている。
 残念ながら、九輪は綾の試合を目にしていなかった。自分の試合や澪のセコンド、前年度優勝者としてのインタビュー等で忙しかったからだ。
 だが、彼は試合で見せたのが綾の実力だとは思わなかった。自分が本能的に警戒心を抱く相手だ。一日目から全てを見せることはなく、本当の実力を見せてくるのは明日の決勝戦になるだろう。逆に、今日の試合を目にして彼女の実力を判断すれば、決勝で足をすくわれるかも知れない。何にせよ、油断のできる相手ではないことは確かだ。
 一日目の日程が終わり、九輪達はホテルに戻ることになった。
 会場からホテルまでは10q程度。さやかが車で送ってくれる手はずだが、九輪は自分の足で走って向かうことにした。
 身体を動かし足りなかったせいもあるが、澪と同じ空間にいるのが気まずかった……というのが大きい。彼の心中を察してか、さやかは複雑な笑みを浮かべた。
「そう……しょうがないわね、道に迷わないようにするのよ? あと、車には気をつけて」
「先生もね」
「生意気言わないの。それじゃ、一足先に行ってるわね」
 普段なら一緒にロードする、と言い出しそうな澪だが、今日は押し黙って助手席に座ったままだ。気まずい空気の中、九輪を残して車は走り出す。
 考えてみたら、さやかと澪だって気まずいのには変わりはない。厄介事を押し付けているだけの自分に気付き、少し胸が苦しくなった。
 しかし、悩んでいても仕方ない。今は明日の決勝のことだけを考えよう。
 ホテルまでの道のりは単純なもので、ちゃんと頭の中に入っている。○○の町中を抜けて一時間ばかり。繁華街は近いものの、時間が早いせいか人通りはあまり多くはない。
 走り出して20分も経ったろうか。人気のない路地を走っている九輪の前に、突然少女が飛び出してきた。
「たすけて! 助けてください!」
 九輪の姿を認めるや、少女は泣きそうな顔で助けを求めてきた。子猫を思わせるコケティッシュな容貌。小柄な身体に、白と紺のセーラー服をまとっている。このあたりの高校の校章だろうか、胸元には金色のバッジが光る。
「どうした? 何かあったのか?」
 周囲を見回すが、自分と彼女以外に人影はない。少女の様子にただならぬものを感じ取り、九輪は足を止めた。
「友達が……っ! 友達が、大変なんです! 悪いやつらに襲われて……!」
「悪いやつ? ……って、おいっ」
 ぎゅっと九輪の腕を取り、必死の形相で路地に引っ張る。その勢いに気圧されるようにして、九輪は薄暗い裏路地に引きこまれた。
 ビルとビルの隙間を抜け、通りから外れた奥へ走る。ほどなくして、二人は騒動の現場にたどりついた。
「ああ!? 何だ、テメェは!?」
 路地裏にいた三人の少年が、駆けつけた九輪に険悪な視線を向けた。年は彼と同じくらいだろうか。茶や金、思い思いの色に髪を染め、皮ジャンやパンツをラフに着こなしたストリート・スタイル。
 しかし九輪はむしろ、彼等の背後、路地の奥でうずくまっている少女の姿に目を奪われた。
 彼女が少女の言う「友達」なのだろう。白と紺のセーラー服は無惨に引き裂かれ、白い肌が痛々しく露出している。俯いてぎゅっと強く肩を抱きしめているせいで長い黒髪が地面に流れ落ち、顔を確認することはできない。
 静かな怒りに、九輪の目がすっと細まった。
「お前ら……何をやっている」
「あぁ!? そんなんテメェには関係ねぇだろ!」
「とっとと消えろや、オラ! 怪我してぇのか!?」
 少年の一人が懐から折りたたみナイフを取り出し、パチンと刃を露出させた。暗がりの中、日の光を受けたナイフがぎらりと光る。
「脅しのつもりか?」
 醒めた口調で、九輪は三人を一瞥した。その雰囲気に気圧され、三人組は一歩下がる。
「怪我したくないなら武器を捨てろ。警察に突き出すかどうかはその子に任せてやる」
「な……なめんな!」
「構うかよ! やっちまえ!」
 その言葉に激昂し、ナイフを構えた少年が一気に突っ込んできた。小さな悲鳴を上げ、九輪の背中に少女がしがみつく。
「――放せっ!」
 数瞬、反応が遅れた。身動きの取れない九輪の顔面に、鋭利な刃が迫る。
「ふんっ!」
 ナイフが肌に触れる寸前に、九輪は下から相手の腕を払った。刃が頭をかすめ、勢いのついた少年は彼の前でたたらを踏む。
 そのがら空きの顎を、九輪の肘が打ち抜く。手でナイフを弾き、そのままの動作で顎を砕くカウンターの一撃。何が起きたかも分からないまま、少年はその場に昏倒した。
 その瞬間――、
「ッ!?」
 全身を激しく震わせ、九輪はその場に倒れ伏した。
「な……に……?」
 全身を走り抜ける激しいショック。突然のダメージに意識は朦朧とし、冷たいアスファルトの上で無防備な背中をさらす。
 当然、彼は気付いていなかった――背後にかばっていたはずの少女が、火花を散らすスタンガンをその手に持っていることに。
 くすりと笑い、彼女は身を伏した九輪の上にかがみこんだ。首筋に電極を押し付け、スイッチを入れる。
 青白い火花とともに九輪は全身を震わせ、がくりと力を失った。完全に失神したようだ。
「ご苦労さま、留美」
 ぺろりと舌を出す少女と、呆然とする二人の少年。彼らの背後で、うずくまっていた少女
が悠然と顔を上げた。
 もし九輪に意識があれば、見覚えのあるその顔に自分の目を疑っただろう。
 篠宮綾。
 怜悧な美貌に薄い笑みを浮かべ、彼女は失神した九輪を見下ろした。
「呆気ないものね。最強の高校生も、女の子にはだらしがなかった、ということかしら」
「あ、綾お姉さまってばひどいんだぁ。本気で心配してくれたんだよぉ、この人?」
「あら、そう?」
 ふふ、と軽く笑う。
「じゃ、それ相応の『お礼』はしてあげないとね……私達にできる、最高の方法で――」
 はだけた服を直して肌を隠し、綾はスカートのポケットから札束を取り出した。一万円札で20枚ばかりはあるだろうか。立ち尽くしている二人の少年に向け、ぽん、と放る。
「協力してくれてありがとう。約束のお金よ」
「な……おい!」
 少年の一人が、顔を真っ赤にして彼女に詰め寄る。
「なんだよテメェ、その態度は!? こっちは怪我人出してんだぞ!? それに、こいつがこんなに強いなんて聞いてねえ!」
「殴られて失神しただけじゃない。病院で湿布を貼ってもらっても、充分お釣りが出る額よ?」
「ああ? スカしてんじゃねぇぞ、このアマ――!」
 激昂し、彼は綾につかみかかった。胸倉を鷲掴みにされ、綾は露骨に顔をしかめる。
「放しなさい。……それとも、契約を破棄するつもりかしら?」
「契約? へっ――」
 ニヤっと笑って、少年は綾の視線を受け流す。
「冗談じゃねぇ、割りに合わねぇから追加料金をもらうってだけさ。そうだな……」
 服の破れ目から覗く綾の肌。そのなまめかしい眺めに、少年は目をぎらぎらと光らせる。
「お芝居の続きといこうか。あんたと、そっちの子。二人まとめてセックスさせてくれるっ
てんなら、考えてやってもいいぜ?」
「……そう。いいわ」
 少年の提案に、綾は冷たい笑みを返した。制服をつかむ彼の腕に、そっと手を重ねる。
「交渉は決裂ね」
「ああ――?」
 返事をする間もなく――少年の身体は宙を一回転した。受け身も取れずに背中からアスファルトに叩きつけられ、ぐぅっと押し殺した悲鳴が上がる。
 間髪入れずに、綾はつかんだままの彼の腕をねじ上げた。肘がいびつな格好に折り曲げられ、みりみりと関節が軋む。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁ――ふぐっ!?」
 悲鳴を上げる彼の喉に、綾は容赦なく膝を落とした。響き渡ろうとした悲鳴は喉の奥で強引に押し潰され、不自然に途切れる。
 仲間の少年が助けに入る間もなく、綾は相手の肘を折った。彼女の下で白目をむき、少年はだらしなく失神する。じょーっ……という音とともに小便が洩れ、彼の下のアスファルトに黒いしみが広がった。
 息ひとつ乱さずに立ち上がり、綾は残る一人を見やった。
「どう? 大人しくそこのお金を取って帰る? それとも……」
 彼は大人しく帰ることを選択し、二人の仲間を連れて逃げるようにその場を去った。綾と留美、そして失神した九輪の三人がその場に残される。
「うまく行きましたね、お姉さま♪」
 意識のない九輪を膝枕に乗せ、留美がはしゃいだ声を出した。その手は九輪のシャツの中に差し入れられ、裸の胸板をまさぐっている。
「いきなり、よその高校の制服を用意してって言われた時はびっくりしましたよぉ。まさかこんなに簡単に引っかかるなんて思わなかったなぁ」
「しーっ、静かに」
 唇に指をあて、綾は後輩をたしなめた。
「いつ目覚めるか分からないわ。早く運びましょ」
「はーい、お姉さま」
 身をかがめ、留美は軽く九輪にくちづけた。
「うふふ、待っててね……いいトコロに、連れてってあげる……」

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