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赤いイナゴの大群
第7話 陳留宣はとある古寺で若い女と出会う
若い部隊指揮官の陳留宣は、己の未熟さを痛感しながら、単騎で荒野を駆けていた。今は一歩でも早く、一瞬たりとも早く、この忌まわしい戦場から遠ざかることだけを考えていた。
完敗・・・まさに、完敗だった・・・・。敗走寸前にまで追いつめられていた戦局を、自らの勇気と機転によって覆すことができるかもしれなかったチャンス。それを、あろうことか自らの心の甘さによってあっというまに逆転されてしまった。
悔やんでも悔やみきれない後悔と自責の念。黄旗隊の動きが止まったとたん襲いかかってきた赤い奔流のすさまじさ。動きを止めた隊長に反撃の命令を促す家来たちの悲痛な叫び。隊列を乱して混乱する味方の兵。奔流をくい止めようと必至で奮戦する勇敢な将校達。
全てはほんの一瞬の出来事だった。次々と鮮血噴き上げて倒れていく味方の士卒の中で、近衛軍生え抜きの貴族出身と思われるひとりの青年士官が、敵の包囲の一角を突き崩し、味方の退路を確保した。わずか数十人にまで減ってしまった黄旗隊はその突破口から一気に逃走を試みたのだ。
しかし赤い軍団の追撃はすさまじく、払っても払っても執拗に迫り来る敵。もはやこれ以上は逃げ切れないと思われた瞬間、その若い青年士官が陳に向かって叫んだ。
「ここは私がなんとしてもくい止めますから、隊長は気にすることなくこのままお逃げください。決して諦めないでください。破れたりとはいえあの突撃戦法、誠に見事でございました。隊長はわが宋にとって大切なお方、決して命を粗末にされませんように。しからば御免!」。
名も知らない貴族出身の士官は、それだけ告げると突如として馬首を返し、追撃をかける敵のまっただ中に単騎で切り込んでいったのだ。他の家来に促され再び馬を駆けさせながら、ふと後ろを振り返る。多くの敵が彼を取り囲み一斉に槍を突き出す。それを巧みに交わしながら、不敵な笑みを浮かべながら奮戦を続ける士官。
山裾が迫り、視野から彼の姿が見えなくなる瞬間、敵の放った矢がその士官の馬を射た。馬上の彼もろともに馬は倒れ込み、士官が地面に倒れ込む瞬間が目に入った。落馬した士官にわっと敵兵達が群がっていく。ああなってしまっては、もはやどうしようもないだろう。きっと残虐極まりないなぶり殺しにあうことだろう。陳は目に涙を浮かべながら彼の冥福を祈った。
あれからどれぐらいの時間がたったのだろう。あたりは夜の闇が支配する世界になっていた。最後まで付き従っていた家来達とも離ればなれになり、今は一人だけになっていた。
草だらけの高原地帯をぬけて、今は深い森林地帯を抜ける街道道抜けようとしていた。自分の勘が正しければ、おそらく都の近くに戻ってきているはずだ。木々の茂る周囲の地形がなによりもそのことを物語っている。
ホウ、ホウ、ホウ・・・。木の上あたりからフクロウの鳴く声が聞こえる。夜の闇の中ではなんとも薄気味の悪い声だ。夜のとばりが押し寄せ、闇も次第に色濃くなってきている。このまま森の中で夜を明かすのはあまりにも危険というものだ。どこか夜露をしのげる場所を探した方が良さそうだ。
とそのとき、森の木々の切れ目に古ぼけた寺院が見えてきた。地獄で仏とは正にこのことだな。陳は迷うことなく馬首をその寺院に定めた。一歩近づくたびにその寺院の偉容に圧倒される。
さぞかし元は、大きな寺院だったんだろうが、今は全く人の気配がない。襲い来るイナゴの恐怖と大混乱の中で、高名な仏僧や修行僧達でさえも、大慌てで南方を目指して落ちていったのだろう。門前から境内にはいると、その混乱の様子が手に取るようにわかった。
おびただしい経典の束が無造作にうち捨てられ、月あかりに照らされて風に舞っている。寺院の建物という建物の扉は大きく開かれ、その中には多くの善男善女の信仰のよりどころとして安置されてきた仏像が、台座からうち倒され無惨な姿をさらしていた。
誰もいない寺院の中庭にはいると、陳は静かに馬を降りた。無言のままで剣ををはずし、兜をとり、鎧を脱ぎ捨てる。そのまま本堂のあたりを見すましながら大地に頭をこすりつけた。とどめなくあふれ来る涙。こらえきれない嗚咽は、しだいに号泣へと変化した。陳はここで初めて自らの心を解き放った。
多くの部下を死なせながら、たった一人、自分一人だけが生きながらえているという罪悪感。いまさら戦いの初めからあの若い士官の死まで、自分のとった行動の一つ一つを後悔したところで、もはや取り返しのつくものでもないし、またその罪が消えるわけでもない。
しかし陳にとっては、なによりその痛ましい犠牲に対して、仏の前でその慈悲の力に頼りたかったのだ。お経の文言など何一つ知らない。武辺一筋で生きてきた男だったが、もはやこの苦しさは神仏の力を借りること以外に、精神の平静を保つことはできないぐらい追いつめられていた。今もしもこの寺院が無人でなく、僧侶がいたならば彼は迷うことなく剣を捨てて仏門に入る道を選んでいたことだろう。
夜の闇がさらに深まった頃、陳はようやく地面から顔を上げ、疲れた身体を引きずりながら僧坊に向かって歩を進めた。心の疲れはまだ癒えてはいないが、肉体の方が猛烈な休息を要求していた。不思議と空腹は感じない、ただぐったりとして身体を横たえる場所を欲していた。
かつてはたくさんの修行僧が寝起きしていたであろう、その僧坊も他の庫裡などと同じように荒らされていた。仏僧たちが出ていった後、盗賊共が荒らし回ったのに違いない。陳は部屋の隅から薄汚れた古布を引っ張り出すと、それを身体に巻き付けると、あっという間もなく深い眠りについた。
ガタッ・・・・
物音に陳はがばっと跳ね起きた。
真っ暗な僧坊の中で、かすかに動くものの気配があった。泥のように眠っていても、永年に渡り戦いの日々を過ごしてきた武人の神経は、そのかすかな物音を危険な兆候として見逃さなかった。
「!!」。
ほんのわずかな睡眠ではあったが、肉体の疲れはすっかりと癒え、精神はピンと張りつめている。暗闇の中で右手は腰に帯びていたはずの剣を探し求める。しかしそこにあるはずのものはなかった。そうだ、剣も甲冑もすべて中庭に脱ぎ捨てたままなのだ。
今から中庭にとって返す余裕はない。相手が何者であるかが判るまで、そのような行動はあまりにも危険すぎる。陳は手探りで僧坊の中で得物として使えそうなものを探った。不審な物音は依然として続いている。
右手に固い樫の棒の感触があたった。両手で確かめると長さは1メートルで太さもいい案配だ。ちようど棒術の訓練に使用したものと大差はない。陳は両手でしっかりとその棒を握りしめると、物音を立てないように暗い廊下へと進み出た。
物音はどうやら僧坊の右のはずれあたりでしていた。赤いイナゴ共の追っ手か、はたまた寺を荒らす盗賊どもか。いずれにしても深夜にこんな寺に入ってくる限りはまともな存在でないことは確かなはずだ。
ミシリ、ミシリ・・。板張りの廊下がかすかなきしみ音を発するたびに動きを止めて様子を見るが、物音の主が気づいて動きを止める様子はない。依然として何かを探しているガサゴソという物音だけをたてている。音はどうやら僧坊のはずれにある炊事場のあたりからしているようだ。
カチカチ・・・
突然、火打ち石をこする音がして、ぽっと明かりがついた。廊下にまでその明かりが漏れだしてきた。いったい何をしているんだろう。陳は警戒心をとかないまま、そっと炊事場をのぞき込んだ。
灯りの中に何かを作ろうと苦闘している人影が浮かび上がる。人影はたった一人、他には誰もいないみたいだ。華奢な体格に長い髪の毛。どうやらまだ若い女のようだった。
「なにをしているっ」。
「きゃっ!」。
その女は驚いたように振り返った。逆光になっていて、その表情はよく見えなかったが、明らかに陳のその一声に驚き、そして明らかに怯えた様子が伺えみれた。
「あっすまない、脅かすつもりはなかったんだ。心配することはない」。
てっきり盗賊か追っ手の一味かと思っていたが、その怯える姿からはとても自分に害をなす存在でないことは判った。陳は警戒を少しだけ緩めると、罪悪感を払拭するかのように、つとめて優しい口調で問いかける。
「女、大丈夫だ。俺は大宋近衛軍の将校、陳留宣というものだ。味方の部隊とはぐれてしまったために、今宵はこの寺で一夜を明かそうとしていただけ。ただ物音がしたので確かめに来ただけだ。安心しろ、決しておまえに害をなすものではない」。
しかし女は無言で彼をにらみつけたまま、決して動こうとはしない。その目にはおまえの言う言葉なんて信用ができるかという、明らかな憎しみの表情が読みとれた。
「そうだろうな。驚かせてしまったようだな。すまん、許してくれ。ほれ、このとおりだ」。
陳は手に持った棒を投げ捨てて、女に深々と頭を下げる。
「・・・・・・・」。
無言のままの女に向かって、陳が気になる疑問を口にする。
「ところでお主、こんな深夜にこんなところで何をしようとしていたんだ。かまどに火を入れようとしていたところをみると、飯でも炊こうしていたのか。ん?本当にそうなのか」。
「・・・・・・」。
「そうか・・やはりしゃべってはくれないのか、困ったな・・・。まっ、それはいい。話さなくても。でもな、俺もその、今猛烈に腹が減ってきたところなのだ。その・・・ものは相談なのだが、その・・・俺の分も何か腹のたしになりそうなもの・・・作ってもらうわけにはいくまいか?」。
陳はそういうと炊事場の床にどっかと腰を据えた。女から見たら全く無防備にみえただろう。相手の警戒心を解くためには、自ら無防備をさらけ出すのが最も有効な手段であることを、陳は永年の経験で知り尽くしていた。
その態度に触発されてか、女の警戒心が少しゆるんだ。
「私の名前は・・小蘭・・」。
か細い声がした。その声はまるで御仏のごとくに、優しく清らかな声だった。過酷な戦闘でささくれ立っていた陳の心を優しく包み込む、まさに天使のような声。
「小蘭・・そうかいい名前だな・・」。
小蘭は、陳のその感想には直接答えることなく、くるっと彼に背を向けると、再びかまどに火をつける作業を開始した。陳はいいしれぬ安堵感から、炊事場の床に大の字に寝そべり、あっという間に高いびきをかき始めた。
小蘭と名乗った女は、そのあまりの無警戒ぶりを見て、思わずくすっと笑みを浮かべた。
翌日の朝、太陽が輝きをみせる少し前、荒れ果てた寺から一頭の馬に乗ってでてゆく一組の男女の姿があった。言わずとしれた陳留宣と小蘭だ。
馬の背に乗り陳の腰にしっかりと手を回した女の表情には、昨晩のようなおびえの陰りはもうない。そこには安心しきった一人の女の表情、そんなものが見てとれた。きりっと引き締まった表情をした留宣は、周囲に注意を払いながら、森を抜けまっすぐ南をさして落ち延びていった。
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